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TRIBUTE TO A GREAT SADDLEMAKER
AND LEATHERCARVER,

BILL GARDNER

(June 1, 1929 - July 15, 2011)

 
bill_gardner01.jpg

偉大なるサドルメーカー、レザーカーバー

ビル・ガードナーに尊敬と感謝を込めて
 

2011年7月15日、ワイオミング州シェリダンの名サドルメーカー、名カーバーであるビル・ガードナー氏が永眠されました。
5年ほど前に脳卒中をおこし、一命をとりとめて意識は取り戻したものの神経機能の麻痺により、クラフト仕事の引退を余儀なくされました。以来、養護施設で施設のスタッフとご家族の手厚い看護の中で療養生活を続けていましたが、7月15日、帰らぬ人となりました。
私が伝え聞いたり調べたりした範囲でありますが、ここにビル・ガードナー氏の経歴と功績をご紹介させていただきます。


彼の名は日本ではシェリダンスタイルカービングの教本の著者として知られていますが、カーバーというだけでなく、屈指の名サドルメーカーでもありました。
シェリダンスタイルの第一人者として誰もが名を挙げるドン・キングが初めて工房を構えた1947年(ビル・ガードナー18歳)、最初に雇われたスタッフであり、現在全米を代表する馬具店となったキングズ・サドラリーの創成期を支えた職人と言えます。

ビル・ガードナーが革に携わるきっかけとなったドン・キングとの出会いは、彼らが少年時代にまで遡ります。
当時、ビル・ガードナーの父親がポロ競技用のポニーを繁殖、飼育する牧場でホースマン(馬の世話をしたり調教をする人)として働いており、彼の部下で、同じくホースマンとして働くドン・キング(当時17歳)を兄のように慕い、常に後ろをついて回っていたのが当時11歳であったビル・ガードナーでした。

その頃ドン・キングはすでに一人前のカーバーであり、牧場での仕事が終わった後、彼が寝泊まりしていた干し草小屋の片隅でベルトや財布にカービングするのを見学させてもらうのが、ビル・ガードナーの楽しみのひとつとなります。(当時のカウボーイやホースマンは、牧場敷地内に宿を与えられたり家を構えるのが普通で、巨大な干し草小屋は、大抵エサ置き場と宿を兼ねていました)
やがてドン・キングから工具の使い方を教わり、端革で柄のデザインとカービングの練習をするようになり、 その後、釘やボルトから自分用の刻印を作る方法も教わりました。

これが、生涯続く事となったドン・キングとビル・ガードナーの師弟関係、パートナーシップの始まりです。
カービングを始めて間もない頃から図案のデザインと刻印製作を教え込まれた事により、「自分の意図する表現をするには、その表現に理想の刻印は自分で作るしかない(他人では作れない)」という概念を身に付けました。それがビル・ガードナーが卓越したカーバーへと育つ要因の1つとなったのではないかと思います。

15歳になる頃には一人前のカーバーとなり、彼の技術と才能に目を付けた、当時シェリダン地域で最大手のサドルメーカーであったエルンスト・サドラリー(現在は廃業)に学校が終わった放課後や週末にアルバイトとして雇われ、これがビル・ガードナーの職人としてのキャリアのスタートとなりました。

以降、シェリダン地域のみならずモンタナ州、アリゾナ州などの歴史に名を残す大手有名サドルメーカーの下請けとして、時には工房内で、カーバーとして働く事となります。
特筆すべきは、ビル・ガードナーが様々なサドルメーカーのカービングを手掛ける中で、必要に応じてそれぞれのカービングスタイルを彫り分けたという事です。最終的にシェリダンスタイルがビル・ガードナーの代名詞的な作風となりましたが、このカービングスタイルへの柔軟性が彼の作風の幅広さを物語っています。

1940年代〜1960年代はサドル産業の第二次激動期であり、ほとんどの大手サドルメーカーが廃業しました。
一方で、ライン化して生産効率と低価格を追求する量産サドルの大手メーカーが生まれ、伝統的な工法のサドルメーカーは、高い技術を持つ個人職人だけが生き残りました。
こうした中でビル・ガードナーも、やがてシェリダン地域内で高品質のサドルを手掛ける個人工房の仕事だけを手伝うようになります。
1960年代にドン・キング、後にチェスター・ヘイプが1980年代まで製作を担当したアメリカ最大のロデオ協会のトロフィーサドル(※)の製作協力をした時期もありました。ビル・ガードナーの最も輝かしい経歴のひとつであり、彼のカービングの質の高さを象徴するものとも言えるでしょう。

※トロフィーサドル
ロデオの競技会などで、トロフィーの代わりに贈呈される豪華なサドル。通常は全面カービングで、フェンダー部分には大会名と種目名、年代もカービングされる。
大会によって8種前後の種目があり、大会ごとに種目数分のトロフィーサドルが必要となる。

全米規模の競技団体からトロフィーサドル製作の依頼を受ける事は、サドルメーカーにとって最大の栄誉のひとつ。

こうしてカーバーとしてサドル産業に携わる中で、サドル作りの知識と技術も自然と身に付け、1970年代からはカービングだけでなくサドル製作も手掛けるようになります。
他者の工房内で働いたり下請けという形のサドル製作であり、サドルに押されるブランド刻印に彼の名が出る事はありませんでしたが、サドルを見ればガードナー作と分かる品質の高さを誇ったそうです。

1984年には、キングズサドラリーがアメリカを代表するウェスタンサドルの工房として、イギリスのエリザベス女王の訪問を受けます。この時にカービングの実演を披露したのもビル・ガードナーでした。
ビル・ガードナーが自ブランドでサドル製作を始めたのは1986年(当時57歳)ですが、シェリダンという街がサドルとカービングの質の高さで全米の注目を急激に集めた頃に一致します。
それまでブランド刻印に自分の名が出なくても誰もが知る職人であった事が彼が卓越した職人である事を物語っており、また、他者の名の元でも誇りを持って質の高い仕事を続けてきたビル・ガードナーは、キングズ・サドラリーが、ひいてはシェリダンという街がサドル産業、カービング産業の中で現在の地位を確立した影の功績者と言えるのではないでしょうか。

また、ビル・ガードナーもドン・キングと同じく、積極的に後進の指導に当たりました。
クリントン・フェイがビル・ガードナーを最大の恩師と仰ぐのは有名な話ですが、父親がサドルメーカーであったジム・ジャクソンも、本格的にカービングの指導を受けたのはビル・ガードナーからでした。
1960年代、当時エルンスト・サドラリーでサドルメーカーとして働いていたエド・ジャクソンの息子で、アルバイトをしていた当時10代前半のジム・ジャクソンに、そこでカーバーとして働いていたビル・ガードナーがカービングの指導をしたのです。
ドン・キングの4男、ジョン・キングにサドル作りを教えたのも彼の父親ではなくビル・ガードナーで、ジョン・キングは後にキングズサドラリーでサドル製作担当となりました。
彼らだけでなくシェリダンで活躍するカーバーのほとんどが、自分たちが若かりし頃のヒーローとして、そして恩師としてドン・キングだけでなくビル・ガードナーの名を挙げます。

こうした事と、10代の頃から生涯続いたドン・キングとのパートナーシップ、60年代〜70年代に2人が共同制作したサドルのカービングが、どちらが彫ったものかほとんど見分けがつかないなどの伝説を考えると、ビル・ガードナーもドン・キングと並ぶシェリダンスタイルカービングの第一人者と言えるのではないかと思います。
そして、2007年のドン・キングに次ぐビル・ガードナーの逝去は、サドルメーカーにとって憧れの殿堂とも言えるキングズ・サドラリーに創成期から関わって来た職人が1人も居なくなった事を意味します。

日本ではビル・ガードナーに関して、教本「シェリダンスタイルカービング」の著者という以外ほとんど情報がありませんでしたが、あの本の出版は、日本でシェリダンスタイルが急速に普及した起爆剤でした。そういう意味では、私たち日本のシェリダンカーバーにとってもビル・ガードナーは恩人であり、ヒーローと言えるのです。

以上、心からの感謝と敬意を以って私なりにビル・ガードナー氏を紹介させていただきました。
この記事でビル・ガードナーの献身と功績を知っていただくと同時に、天国で再会した恩師ドン・キングと職人仲間と共に楽しい第2の人生を送っている事をお祈りしていただければ幸いです。


追記:
ビル・ガードナーとシェリダンという事に関係なく広い意味で、職人として本来の(昔ながらの)方法と手順を追って知識と技術を習得したオールドタイマー(昔ながらの職人)、サドル産業全盛時代をかろうじて現役で経験したマスタークラフトマンがまた一人いなくなってしまいました。
この意味での言いようのない喪失感、焦燥感を感じる人はごく少数かも知れませんが、そのような方とは、この意味でも今回の悲しみを分かち合いたいと思います。
これからもオールドマスター達への想いを胸に、彼らに微笑んでもらえるよう真摯にレザークラフトに取り組んで行きましょう。

2011年8月  大塚 孝幸

以下、私の手持ちの写真の中から、ビル・ガードナーにゆかりのあるものを紹介させていただきます。
作品や姿から、彼に想いを馳せていただければ嬉しく思います。
 




 
全体写真がなくて申し訳ありませんが、キングズ・サドラリー製1970年代のサドルで、ドン・キングとビル・ガードナーが一緒にサドルを製作していた頃のものです。
ドン・キングが彫ったものとビル・ガードナーが彫ったものの区別がつかないと言われている時期のサドルです。

茎の枝分かれ部分に必ずというほどリーフが配置されるのが特徴のひとつで、この特徴はビル・ガードナーの著書「シェリダンスタイルカービング」の表紙の写真にも見られます。
 




2004年、ビル・ガードナー宅を訪問した際に、リビングのテーブルの上に置かれていたバインダーカバー。
現役で使用中でしたが、本人いわく「自宅に残っている作品はこれくらいしか思い浮かばない」との事でした。
 
 
同じく2004年、ビル・ガードナーのカービング台の前にて。
温厚で穏やかなおじいちゃんといった印象で、「Welcome(よく来たね、いらっしゃい)」と出迎えてくれたのが思い出に残っています。

「もう視力が衰えてきたので、趣味程度にカービングで遊んでいる」と謙遜していました。
刻印はレザークラフトが趣味の長男、ドン・ガードナー氏にほとんど譲ってしまったそうで、最低限必要なものが残されているくらいでした。
写真左上に、教本「シェリダンスタイルカービング」を出版した際に記念に作ったポスターが見えます。
※同行の日本人お二人は掲載の許可をとっておりませんので、顔にボカシを入れさせていただきました。
 
  クリントン・フェイを通じて譲り受けた、ビル・ガードナーの様々なサドルの型紙の写し(約50センチ×約10メートル)。

サドルには作り手によって様々な製法と型紙の形があり、優れたサドルメーカーの型紙を見せてもらう事は非常に勉強になるのです。
 
 
2000年にビル・ガードナー、クリントン・フェイ、ボブ・ライクワイズ(編集者)によって自費出版された教本、「ビル・ガードナーとクリントン・フェイのシェリダンスタイルカービング」。
この本の出現がきっかけとなり、日本でも一気にシェリダンスタイルが普及し、後にクリントン・フェイ、ジム・ジャクソンの来日講習の実現へとつながりました。


2000年6月8日夜、キングズ・ミュージアムに、教本「シェリダンスタイル」のギャラリーページに作品掲載を協力したシェリダンマスター8人全員が集結しました。
本の出版を記念し、「コレクターズ版」として100部限定で8人の直筆サインを入れる事になり、そのためにシェリダンのマスター中のマスター達が一堂に介した風景です。
左(赤いシャツの男性)から時計回りに、チェスター・ヘイプ、クリントン・フェイ、ジョン・キング、ドン・バトラー、ジム・ジャクソン、ビル(ウィリアム)・キング、ドン・キング、ビル・ガードナー。横を向いている女性が当時この写真を提供してくれたテレサさんで、助手としてサインが済んだ本に「コレクターズ版」のスタンプと通しナンバーを記入しました。
ビル・ガードナーとクリントン・フェイによる本の出版があってこそ実現した、夢のような1コマと言えます。


以下、私の友人を通じてビル・ガードナーのご遺族より提供を受けた告別式の案内状と追悼ビデオをご紹介させていただきます。

2011年7月20日、シェリダンのケイン葬儀社(Kane Funeral Home)にてビル・ガードナーの告別式が行われました。
この画像は告別式用に作成された案内状です(各画像をクリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)。
経歴部分(1枚目の画像の左側)のみ、和訳を掲載させていただきます。
2枚目の画像の左側は、ビル・ガードナーが子供の頃に大好きだった歌の歌詞です。右側は式次第です。下部の「HONORARY PALLBEARERS」は、告別式の最後に棺を持って運び出す人たちで、リストの中にはクリントン・フェイとジム・ジャクソンの名があります。
 




 
PDFファイルはこちら
 

経歴文の和訳


ウィリアム R.(ビル、ビリー) ガードナーがシェリダンマナーハウスにて、奥さまとご子息に看取られて亡くなりました(1929年6月1日生まれ、2011年7月15日没)。

ビルはワシントン州スポケーンで生まれ、ワイオミング州バッファローのM&M牧場敷地内で幼少時代を過ごしました。そしてシェリダンの西に位置するネポンセット飼育牧場敷地内で育ちました。ベクトン小中学校を卒業後、1947年、シェリダン高校を卒業。少年時代には、ネポンセット牧場でポロ競技用に飼育しているたくさんの仔馬に乗りました。1950年にアメリカ空軍に入隊し、テキサスのラレド基地に配属。朝鮮戦争の期間中はグリーンランドの燃料補給基地に配属されました。1953年に兵役を終えて正式に除隊。1954年4月19日にジェーン・A・フランクリンと結婚、シェリダンで5人の子供を育てました。年少期にドン・キングからレザークラフトを学び、革仕事が彼の生涯の職業となりました。アリゾナ州フェニックスのポーター、シェリダンのルディ・マドラ、エルンスト、キングなどを含む数多くのサドル工房で働き、後に独立しました。マスターカーバー、マスターサドルメーカーとして、多くの人に知られる存在であり、職人としてのキャリアの中で多くのサドル、数えきれないほどのベルト、馬具、その他精巧なカービングを施した様々なアイテムをシェリダン内外の人々に作りました。プロロデオカウボーイ協会用のものも含む、たくさんのロデオ・トロフィーサドルも作りました。注目すべきは、彼が生涯を通じたサドルメーカーとしての功績を讃えられ、ウェスタンアーティスト学会が主催するドン・キングアワードの2011年の受賞者となった事です。彼はカリフシュライン、アメリカンリジョン、エルクス(どれもライオンズクラブやロータリークラブのような社会奉仕団体のようなもの)の会員でした。

彼に先立って亡くなったのは両親のウィリアム・C(父)とジュエル(母)・ガードナー、幼くして亡くなった息子のジョン・マイケルです。遺族はシェリダンに住む妻のジェーン、ワイオミング州バッファローに住む娘のキャスリン・ビールズ(夫ポール)、モンタナ州コーバリスに住む息子のドン(妻デボラ)、テキサス州カレッジステーションに住む娘のペギー・キング(夫ダン)、シェリダンに住む娘のジュリー・ガードナー、ジレットに住む息子のテッド、ワイオミング州パークマンに住む妹のナンシー・マイルズ、キャスパーに住む妹のリンダ・ジョンソンと、9人の孫(カレッジステーションのジョン、クリスティーン、グレース・キング、モンタナ州コーバリスのアメリア、ネイサン・ガードナー、シェリダンのウィル、トーマス・サフェル、シェリダンのテイラー、ブリン・ガードナー)です。


最後に、ケイン葬儀社(Kane Funeral Home)が製作し、告別式の際に上映されたビル・ガードナーの追悼ビデオを紹介します。別ウィンドウにてご覧ください。

 
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この追悼ページの製作に当たり、資料の提供にご協力くださったドン・ガードナー氏、ジョン・フォックス氏、ケイン葬儀社に心より感謝申し上げます。

Special thanks to Mr. Don Gardner, Mr. John Fox and Kane funeral home for supplying materials to help with making this tribute page.