トップページ
自己紹介
作品集
ご注文方法
正規取扱店
リンク集
その他の記事
教室案内
 
掲示板
 
 
当工房定番品ブランド
Stemflow
Stemflow
 
Copyright(C)
Taka Fine Leather Japan,
All rights reserved.
HOME > TOPICS TOP > TRIBUTE TO RAY POHJA

TRIBUTE TO A GREAT LEATHERARTIST,

RAY POHJA

(July 7, 1923 - December 8, 2010)

 

偉大なるレザーアーティスト、レイ・ポウヤに尊敬と感謝を込めて

 

2010年12月、レザーカービング界に多大な功績を残したレイ・ポウヤ氏が逝去されました。
彼 の名は日本ではあまり知られていませんし、アメリカでも若い世代の間では知名度は低いです。
しかし現在アメリカで大御所と言われる高齢のサドルメーカー、カーバーでその名を知らぬ人はいない、屈指の名カーバーであり、刻印職人です。
日本のクラフターの皆さんにも是非彼をお知りおきいただきたく思い、 あくまで私の知識の範囲であり、また主観的な部分も多々ありますが、それを前提にレイ・ポウヤ氏を紹介させていただきます。
なお、 彼の紹介と説明の都合上、「ホビー界」や「プロの○○」という言葉を多用しますが、ホビー界を軽視するつもりはありません。革に真摯に取り組むクラフターでさえあれば、プロとホビイストの間に優劣はないと思っています。

※遺族の方にはこのページ製作の了解はいただいております。
また、このページの最後で、アメリカのレザークラフト雑誌「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」誌の2011年3月4月号に掲載された彼の追悼記事の和訳を紹介させていただきます。

 
サドル産業、ウェスタンアイテム産業の中のレイ・ポウヤ

レイ・ポウヤは1900年代半ば、サドル産業が質、量ともに栄華を誇った最後の時代から、言い換えれば完成の域に達した時代とそれ以降、いわゆるカーバーとして活躍した人物です。数々の経歴の中でも最も代表的なものは、アリゾナ州のポーターという大手有名サドルメーカーの中で朝から晩までひたすらカービングをする純粋なカーバーであった事です。
ポーターの創業は1800年代終わり頃で、常に最高レベルのサドルメーカーとカーバーだけを雇い、1960年代に廃業するまで世界的に知られる最高品質のサドルメーカーのひとつであり続けました。
ポーターも含め、テキサス、アリゾナを中心としたアメリカ西南部のレザーカービングは、1940年以前どこか垢抜けず原始的なものでしたが、’40年代、そこに革命的な華やかさと洗練された雰囲気をもたらしたカーバーの一人が当時20代であったレイ・ポウヤで、レザーカービングに大きな転換期をもたらし、現代的なカービングの礎の確立に多大な役割を果たしました。


当時、レイ・ポウヤのカービングは多くのサドルメーカー、カーバーに影響を与え、模倣されました。
今でもアメリカではポータースタイルという言葉がありますが(ポーターがアリゾナにあった事からアリゾナスタイルとも言われる)、そのポーターの作風たる=ポータースタイルを創造、確立したのがレイ・ポウヤなのです。
アメリカのカウボーイやウェスタンの博物館、関連書籍などで、レイ・ポウヤのカービングが施されたポーターブランドのサドルやガンベルトなどが見られる事からも、レイ・ポウヤのカービングがポーター製品の象徴であり、また、ポーターが歴史に残るメーカーであった事が伺えます。

彼はカーバーであると同時に自分の作風に合わせてボルトなどから刻印を作ったり、市販の刻印を独自に手直ししたり、刻印職人としても当時有名で、多くの同僚や同業者のために刻印を製作しました。


その後サドル産業全盛の最後の時期から衰退の時期にかけ、エンターテイメント業界が本来地味でストイックなカウボーイ、ウェスタンの世界を華やかに脚色したウェスタンショー、西部劇が隆盛を成してゆきます。これによりウェスタンファッションという市場が誕生し、同時にファッション小物としてのカービングアイテムという需要が生まれました。
ハリウッドに工房を持つエド・ボウリン、アル・シェルトン(ここでは説明を割愛します)などに並び、レイ・ポウヤもこの時代にカービングアイテムの魅力を世に認知させ、ハリウッドの俳優やウェスタンショップの上客に最高級のカービングアイテムを提供したトップアーティストの一人です。
そしてサドル産業だけでなくウェスタンショーや西部劇の衰退後もウェスタンファッション市場は存続し、現在に至りますが、レイ・ポウヤはカービングに無限のアイデアやデザインを提唱し続けました。
私の知る限りレイ・ポウヤは自ブランドを持たず、あくまでカーバーとして他社ブランド製品のカービングを手がけ続けましたが、それら他社ブランドの雑誌広告、店頭ポスター、販促用ポストカードなどには、彼がカービングを施した製品が数多く使われました。
それほど彼のカービングが、ショップやブランドにとっての看板であったと言えるでしょう。
 

ホビー界の中のレイ・ポウヤ

話は1950年代に戻り、クラフトツール社(買収や合併を経て現在はタンディー・レザーファクトリー社)により、レザーカービングがホビーの世界に進出し、図案集や教本が出版されます。それらの本に図案や見本を提供したのはレイ・ポウヤも含め、現役または元プロ・カーバーばかりでした。1950年代以前はレザーカービングが閉鎖的な職人世界のものであったからです。

この当時の図案集や教本に掲載された作風が以降の出版物や教材などの主たる原型となり、結果、 現在ではトラディショナル・ウェスタン・フローラルパターン(伝統的なウェスタンの花柄)と呼ばれるカービングパターンとなりました。
レザークラフトの普及、そして教本や図案集に関して、絶対的な第一人者であるアル・ストゥールマンの多種多様な作風の中でも、トラディショナルパターンと謳われているものはやはり1950年代に主流であった作風になっています。
50年代当時の多くのカーバーがレイ・ポウヤの影響を受けていた事を考えると、昨今のシェリダンスタイルの流行以前、いわゆるトラディショナルパターンがお手本の中心であった時代からカービングに取り組んでいる方々(私も含め)は、無意識のうちにレイ・ポウヤの作風や技法を多少なりとも学んでいた事になります。
トラディショナルパターンで頻繁に目にする、現在では定番的になっているフラワーも、実はレイ・ポウヤが最初にデザインしたものが多数あります。

レイ・ポウヤは極端に謙虚であったのか、それともホビー界とは意図的に一線を画したかったのか私には分かりませんが(90年代に会った時には「俺の技術を伝えるなんて、とてもとても・・・」と言っていました)、1950年代の図案集にいくつかの図案を提供して以降、90年代後半まで全くと言うほどホビー界とは関わりを持ちませんでした(それらの図案集は現在はほとんどが絶版となっています)。
結果、彼の名が現在の若い世代やホビイストに知られる事はほとんどありませんでしたが、数々の教本を手がけたアル・ストゥールマンが多くの人が知る憧れのカリスマであると同時に、レイ・ポウヤはプロの世界で、または知る人ぞ知る憧れのカリスマであったのです。
この事を物語るエピソードのひとつとして、1997年、ロサンゼルスのカウボーイ博物館で、チャック・スミス、レイ・ポウヤ、ジム・ジャクソンの3人の講師による一週間のカービングセミナーが開催された際、ジム・ジャクソンが「あのレイ・ポウヤに会えるなら」というのが、講習会の講師を初めて引き受けた理由のひとつだそうです。

レイ・ポウヤの逝去で改めて想う事

私はしばしば、トラディショナルパターンやアル・ストゥールマンの作風が基礎編でシェリダンスタイルが上級編という認識や、前者は時代遅れで後者が現代のものという趣旨の言葉を耳にしますが、これには大きな違和感を持ちます。
優れた作品はいつの時代も新鮮で、仮にクラシックとモダンという区分けやその時々の流行があるとしても、そこに基礎と上級や、時代遅れという認識は存在すべきでないと思っています。
地域の作風や職人個人の作風問わず、流行した時代を問わず、ある一定レベルに確立された作風はそのどれもが魅力的で奥深く、言い換えればすべての作風が基礎であると同時に応用であり、常に現役だと思います。
どんなに大御所やカリスマでも当然初心者や駆け出しの時代はあり、その頃からの地道な積み重ね、試行錯誤、新しいモノを探求する苦しみの結晶として作風が生まれるのですから、基礎と応用が同居し、半永久的に現役であって当然なのです。

伝統的な作風や既存の作風に”そのまま”固執するのを推奨するつもりはありませんし、レザーカービングは常に改良され進化してゆくべきで、作者の個性を反映するのが大切な事ですが・・・・・ レイ・ポウヤは今から60年以上前、それを強烈に実現し、弱冠20代にしてレザーカービングに革命を起こしたのです。

現在のようにレザークラフトに関する教本や情報がなかった時代、カービング技法が職人世界の秘守事項であった時代に、少年の頃から完成した製品やカタログの写真だけを頼りに自己流でカービングを研究し、自分で刻印を製作してカービングに励み、後にカービング界に名を遺した職人が、そしてサドル産業、カービング産業の全盛を現役で経験した職人がまた一人減りました。
私としては非常に悲しく残念であり、このような人がいたという事を少しでも多くの人に知っていただき、記憶にとどめていただきたいとの思いからこのページを作りました。

偉大なカーバー、現代カービングの礎を築いてくれた恩人、生涯現役で高みを目指し続けたレザーアーティスト・・・・・レイ・ポウヤを、どうか忘れないでください。

私独自の彼の紹介と追悼を、最後までお読みいただきありがとうございました。

ここに改めて、レイ・ポウヤの功績に心より感謝と賞賛を申し上げ、ご冥福をお祈りしたいと思います。

2011年5月
大塚 孝幸


※以下、私が印象に残ったレイ・ポウヤの言葉、エピソードなどをいくつか紹介させていただきます。'96年、'97年、'00年に会った時(当時レイ・ポウヤ70歳代)のものです。
彼と私達は、時代背景、立場、キャリア全てが違うので一概に参考にはできませんが、これらのエピソードから何かを感じていただけたら幸いです。


講習会で配布されたカービング見本の
コピーと資料。



レイ・ポウヤと彼の弟子の1人であるチャック・スミスの
講習会課題作品。



レイ・ポウヤ製作の刻印。
不揃いな材質とシャフト(軸の部分)に完璧な打刻面の組み合わせが、「道具は眺めるものでなく使うもの」と訴えているような印象を受ける。
 

●いかにも古めかしい、ゴツくて使いずらそうなスーベルナイフを使っていたので「今は質のいいスーベルナイフがたくさんあるのに替えないんですか?」という質問に対し。
「もうこれが自分の手の一部みたいになっているから、どんなにいいナイフでもかえって使いずらい。50年近く使ってるかなぁ〜。」
ボディの径も刃の幅も、1.5センチ以上ある(主にサドルの大柄を彫るためのものと思われる)巨大なスーベルナイフで、極小の柄から大柄まで、すべてそれ一本で彫るそうです。
刃の幅が異常に広いのに長さが極端に短かったので「刃が短い方が使いやすいですか?」という質問に対し、「長年使って砥ぎ減って短くなった。今はこの幅の刃が売ってないから替えたくても替えられないんだ。」との事。今考えればバカな質問でした。

●市販の刻印(カモフラージュ)の手直しを実演して見せてくれた時に、老眼鏡を掛けたまま表面の線を全て削り取りながら理想の曲面を出し、おもむろに老眼鏡を外してフリーハンドで仕上げの放射状の線を入れていました。万力に刻印を挟んでから完成までものの5分。完璧に放射状の線が揃った美しい刻印でした。
一番デリケートな部分で老眼鏡を外した理由を聞くと
「距離感が狂うから。半分は感覚だし」との事。

●メモ書きと言って見せてくれた古びた大学ノートには、ブーツトップや様々なサドルのパーツの縮小版(10センチ四方くらい)に図案のラフスケッチを描きこんだものがびっしり。ところどころにフラワーのデザイン。
新しいデザインアイデアが浮かんだり、柄の全体構成を新しく開発したい時、次のサドルのカービングを事前に考えておく時に使ったそうです。

●バックグラウンドに接するスーベルナイフカットの線には、ベベラを一切打たずに、バーグラウンダーのみで段差をつけながらバックグラウンドを潰していました。理由は
「プロはスピードも重要だから、打たなくても済む刻印は打たない。それにベベラは潰したくない部分にまで影響を与える事があるから、バーグラウンダーで段差をつけた方が綺麗に仕上がる。」だそうです。

●「定番ではない一点物や新しい柄を彫る時は、紙やフィルムに図案を描くんですか?」という質問に対し、「たまに紙を使う時もあるが、主要パーツの配置と全体の流れを決める程度。革にはフラワーとリーフをタップオフ(革製の型のようなもの)で写して、残りはスーベルナイフで描く」との事。
つまり、フラワーとリーフの配置をした後、茎の部分は何も描かれていないまっさらなところに、スーベルナイフをペン代わりにフリーハンドで直接図案を描くという事です。
彫る対象となる革(カービングをする部分の面積と形状)に向かい、使うフラワーのデザインとサイズを決めると、彫り上がりの全体像が頭の中に描写されるので、それに合わせて作業をしてゆくのだそうです。
ちなみに定番とする柄では、柄丸ごとタップオフを製作して保存しておくそうです。

同じ図案でも、その時々のインスピレーションで刻印使いを変えるそうです。


※図案集に関する補足

現在市販されている図案集でレイ・ポウヤのカービングが見られるものは私の知る限りでは「ラッキー8」と「レイ・ポウヤ図案集vol.1(ベルト編)」のみで、共にベルトだけの図案集です。

「ラッキー8」は1957年オリジナルのベルト図案集で、8人の(当時)現役プロカーバー、サドルメーカーの図案が2ページずつ掲載されています。シェリダンスタイルを見なれた人にとっては一見「古くさい」「大ざっぱ」な彫りの図案集に見えるでしょうが、細かく精査してゆくと、パーツや刻印使いのアイデアとヒントの宝庫である事に気付くはずです。30ページ強の薄い印象の図案集ですが、私は8人の名カーバーの技法が一冊に凝縮された名著だと思っています。
「レイ・ポウヤ図案集vol.1(ベルト編)」は彼が2000年にハイド・クラフターズ社の依頼を受けて提供した、12本のベルトの図案とカービング見本のコピー集です。
カラー印刷の美しい封筒に反し、中に入っているのは白黒の粗いコピーでがっかりするかも知れませんが、実際に革に彫ってみるとその魅力を実感します。
封筒のコーナーカービングもとてもカッコイイです。




最後に、「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」誌2011年3月4月号、66〜67ページに掲載の、彼の追悼記事の和訳です。直訳調の部分が多々あり、分かりにくい部分もあるかも知れませんがどうぞお許しください。
なお、「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」誌には、このページで和訳公開の許可をいただいています。


(故人を)悼んで

カービングの達人、複雑に凝ったデザインのクリエーター、そして最高の刻印メーカーのレイ・ポウヤは、人生のほとんどの歳月を自身の芸術の完成のために捧げました。彼の仕事は、自身の仕事の向上を目指す数えきれないほどのレザーワーカーに影響を与えました。

コロラド州のTellurideに生まれ、8歳になる頃にはハンティングナイフで木を削って飛行機のおもちゃを製作し、才能の片鱗を示します。
小学4年生か5年生になる頃には、はき古したブーツを分解し、自分の木製拳銃のおもちゃに合わせたホルスターを製作しています。

家族でデュランゴに引っ越した時、近所の馬やサドルを目にした事が、彼がカービングの真似ごと―最初は単純なものでしたが―を始めるきっかけでした。店のショウウィンドウのサドルやガンベルト、サドルのカタログで研究しては、湿らせた革にデザインをカットする魅力に常に没頭していました。15歳までには自己流で刻印を製作し、それに伴いベルトを販売しています。

家族でカリフォルニアに引っ越しする際、途中フェニックスに立ち寄り、そこでポーターのショウウィンドウが若かりしレイ・ポウヤの足を止めます。彼は上層階にあった作業場に上り、そこでルーウェル・ジェットに出会い、 刻印の改良の助言や練習のためにと新しいベルト図案を与えられ、激励されます。その後レイ・ポウヤは、シルバーで装飾したパレード用のサドルで世界的に有名なエド・ボウリンのカービングの仕事も手掛けました。大戦後、ルーウェル・ジェットがレイ・ポウヤにポーターの仕事をする機会をもたらします。
1945年当時、"簡易版"ベルトパターンのカービング工賃は一本1ドル65セントでした。週給で85ドルになりました。大きなタップオフを使い、当時のカーバーはサドル丸ごとを一日、8時間で彫りあげていました。レイ・ポウヤは時に、より豪華なパターンをデザインしてカットまでを担当し、他のカーバーが打刻して仕上げるという仕事もこなしました。

一年半ほどサン・フェルナンド馬具店のクリフ・ケチャムの下で働き、その後フェニックスのポーターに戻ります。
ポーターが廃業した後、レイ・ポウヤはモトローラ社で数年間働き、夜間にウェスタンショップに卸すベルトを製作しました。

スコッツデールのスタン・ウィリィズ・ブティックで働くようになり、そこで豪華で贅沢なベルトの製作を手掛ける事となります。フィリグリー技法、ターコイズをあしらった花芯、カットワークを施した裏革、7色のアンティークのコンビネーションなどで、ベルトの価格は450ドル〜650ドルにも跳ね上がりました。ハリウッドがウィリィとレイの作品に着目し、多くの俳優の中でもジェーン&ピーター・フォンダ、ブルック・シールズ、レックス・アレンは特にひいきの顧客でした。
レイ・ポウヤは徐々に活動の場を同じスコッツデールにあった別のブティック、Artigianosに移し、そこでひとつひとつの作品が"少しずつ違う"一点ものの、最高価格帯の商品を手掛けます。
また、ビバリー・ヒルズのファルコンヘッドストアに作品を提供し、その中にはカービングとフィリグリーを施した10000ドルのブーツや5000ドルのベルトもありました。

何がレイ・ポウヤをそれほどに卓越するまでの情熱に駆り立てたのでしょう?
彼自身の言葉によると
「革へのデザインで可能性を使い果たすという事は絶対にあり得ない。極度の興奮状態や熱病のようなものだ。革、革、そして革。これが私を常に前進させた。寝ている時に夢で新しいデザインを見る。目が覚めて紙にメモ描きし、朝起きてからそれを吟味する。私のデザインアイデアの元となっているものは、布生地、木工製品、金属製品、その他何でも、私の目に止まり、ちょっと手を加えれば革に応用できそうなもの全てだ。私は常に新しいアイデアを模索し続け、決して他のカーバーの仕事を真似ることはしない。」
レイ・ポウヤの妻、ドロシーは先立ち、イリノイ州に娘のリリーとその家族、カリフォルニア州に息子のランディーとその家族が住んでいる。

レイ・ポウヤとの思い出

若かりしレイ・ポウヤがポーターの作業場でルーウェル・ジェットに出会って激励されたように、私にとってのルーウェル・ジェットがまさしくレイ・ポウヤであり、63年間以上の親交を考えると、それ以上の存在でした。

私もまた、ポーターの作業場に忍び込み、カービング台から聞こえてくるコンコンコンという音に魅了されました。
レイ・ポウヤはそこに座っており、ランチタイムのリンゴにかじりつきながら、たった今カットを終えたサドルスカートのフラワーパターンを吟味していました。当時私は19歳の青二才でしたが、たった24歳であったレイがその工房の最高のカーバーである事は私の目にも明白でした。ある土曜日の朝、レイが私の勉強のために、ナイフカットだけの唐草模様(いわゆるカットワーク)をカットし、私にくれました。その50年後、そのデザインを使って2本の黒いベルトを、当時の州知事であったジョージ・ブッシュとその夫人に製作しました。大統領はこのベルトを彼の"ラッキーベルト"と呼んでいます。

私がヒューストンに小さなウェスタンショップ兼馬具店を開店した時には、レイが販売用にベルトと3つのサドルを製作してくれました。それだけでなく、私は彼にあれやこれをどのような作業手順でやったのか、手紙で質問をしたものです。彼は何十通にも渡る手紙、図解、デザインを転写した紙、フラワーのタップオフなどで、詳細に渡って解説してくれました。何十本もの刻印も売ってくれて、それらの使い方のヒント、コツも教えてくれました。

数年前、レイが私にデザインアイデアの"スケッチブック"を、勉強のために貸してくれました。その中には構成要素が交差して上を通り、交差して下を通り、そして絡み合った非常に複雑なパターンもあり、私の目はそのジグザグを追うのはほとんど不可能でした。それはボールの中のスパゲッティの麺の流れを追うようなものでした。それでいながら、柄のメインの構成要素、フラワーや大きな葉は絶妙なバランスで配置されているのです。レイはデザインを全体で捉え、デザイン全体でひとつのものと見るという点で超人的な能力、(もしそういうものが存在するとしたら)驚くべき天賦の才能を持っていたのです。

レイ、さようなら。僕はこれからも僕のレザーワークに刺激と奮起を与えてくれた君なりの方法、長年に渡る友情に感謝しつづけるよ。

テキサス州レオナ
テッド S ミズワ

   
※レイ・ポウヤ追悼記事の和訳と、このホームページでの公開を許可くださった「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」誌と、仲介に尽力くださったチャック&ラナ・スミスに、心より感謝申し上げます。
Special thanks to 「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」magazine for allowing me to translate the article into Japanese and put it on my web site to public, also special thanks to Chuck and Lana Smith for taking part as an intermediary between the magazine and me.

「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」の年間購読のお申し込みはクラフト社または協進エル社に。
バックナンバーのお申し込みは直接「LEATHER CRAFTERS & SADDLERS JOURNAL」誌にどうぞ。
http://www.leathercraftersjournal.com/


 
2011年6月 追記
 

日本のウェスタンアイテムメーカーの老舗FUNNY社より、「こちらのページで是非紹介してください」と、往年のレイ・ポウヤ作のノートカバーを貸与していただきましたので追記として紹介させていただきます。
上記の追悼記事本文では主にレイ・ポウヤのカービングの作風について述べましたが、ここではアイテムとしての作風と、この作品にまつわるエピソードを交えて、優れた作品が後世に遺す影響というものに焦点を当てて述べたいと思います。

この作品はFUNNY社会長北浦氏の私物で、’80年代にアメリカ出張の際にアリゾナ州のウェスタンショップで購入したものだそうです。
フィリグリーでインレイにエキゾチックレザー(爬虫類革)を使い、フラワー、ステム(茎)、フレーム(周りの枠)を違う色で染め分けるというのは、レイ・ポウヤの代名詞的な作風で、この作品はそれを象徴する作品と言えます。
さらに高級バージョンになると柄がもっと細かくなり、フラワーセンターに貴石類を埋め込み、周りをレースアップしたりという仕様になります。
また、(こちらは当然ですが)図案のパーツ使い、ラインの柔らかさ、刻印の使い方、デコレーションカットの入れ方も、いかにもレイ・ポウヤという特徴が見られるカービングです。


お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、現在FUNNY社のハイエンドモデル(最高級モデル)やカスタムオーダー品はフィリグリー×エキゾチックレザーのインレイ×カラーの染め分け×貴石類のフラワーセンター×レースアップという仕様が主となっており、つまりレイ・ポウヤが提唱した仕様は日本最大手の老舗メーカーに多大な影響を与え、そして受け継がれているという事です。これはFUNNY社のみならず、日米問わず多くのウェスタンアイテムメーカー、クラフトマンにも言える事です。
近年のFUNNY社の緻密なハイエンドモデルを見なれてしまうと、この作品は物足りなくすら思えてきますがこれが源流であるという意味でやはり価値のある作品であり、それをここで紹介できるのは光栄なことです。


このノートカバーを拝借した際に知らせていただいたエピソードですが、購入当時社長であった北浦氏がこの作品を当時の工場長窪田氏に見せた時の様子を、窪田氏は「20年以上前の事だけど、最初に見せられた時の事は昨日の事のように覚えている」のだそうです。
私はそれを聞いた時に素晴らしいと思いました。
卓越した作品と、それを受け止める卓越した感受性が出逢って初めて「20年以上前の事を昨日の事のように・・・」という言葉が生まれると思いましたが、偉大な先人、その作品は、技法や知識だけでなく、感動や感銘という見えない形でも後進に財産を遺してくれるのだと気付かされました。
自分が受けた感動、感銘という不可視なものを、「あの感動と同じような感動を、自分の作品で他人に与えたい」という情熱を以って作品という形で可視化してゆく事、そういう感動、情熱を蓄積してゆく事が作り手にとって最も大切な部分なのではないかと思うのです。
技法や作風に関しても、軽い気持ちで「お、これいいね、いただき!」と模倣したものは他者の真似、パクリという言葉で片づけられる表面的で薄っぺらいモノにしかなりません。しかし深い感動と感銘、それに伴う敬意と感謝を以って取り入れられた他者の技法や作風は、やがて継承者に吸収されて血となり肉となり、独自のものとして昇華させたと認められる重みのあるモノが生まれ、さらなる進化を遂げてゆくのだと思います。

先人が培った技術や技法だけでなく、感動や感銘の蓄積を様々な形で後進に還元してきた事も、個々の作り手、組織としてのメーカー、クラフト界全体の財産となってきたのであり、これからもそれが繰り返されてモノ作りの精神、作品の質が高まってゆくのだと思いました。

きっとレイ・ポウヤも、彼が名品を世に送り続けた主たるモチベーションは、無意識の中で根底にとどまり続けた、少年の頃に受けたレザーアイテムの感動だったのではないでしょうか。


レイ・ポウヤのこの作品と、それにふさわしい感性と技量を持った日本のレザークラフトマンの第一人者である窪田氏が今から20年以上前に出会い、今こうしてレイ・ポウヤの遺産が日本でも窪田氏とFUNNY社、その他クラフトマン達によって脈々と受け継がれている事を嬉しく思うと同時に、レイ・ポウヤの功績を改めて認識するのはきっと私だけではないと思います。

最後に、FUNNY社ホームページとFUNNY社前工場長、窪田氏のブログを紹介させていただきます。
レイ・ポウヤの遺産がどのように受け継がれ進化しているのか、「ウェスタン」を追求した作品とはどういうものなのか、是非ご覧になってみてください。

FUNNY社ホームページ
http://www.funny-western.co.jp/index.html

窪田敦司氏インタビューページ
http://www.funny-western.co.jp/spirits/01-kubota-atsushi/interview/page-01.html

窪田敦司氏ブログ 
http://ameblo.jp/mijincokid/


この追記の製作に当たり、「レイ・ポウヤの追悼記事のために実際の作品を・・・」と、私への貸与を取り計らってくださったFUNNY社工場長、久保孝博氏、貸与を快諾してくださった会長、北浦善隆氏、久保工場長と北浦会長の仲介をしてくださった社長、北浦隆行氏、素敵なエピソードを紹介してくださったクボタクラフト窪田敦司氏に、この場を借りて心よりお礼申し上げます。貴重な作品とお心遣いをどうもありがとうございました。